-
"四国の覇者・長宗我部元親は足りない戦力を補う為、一領具足制度の本格的な導入により土豪・豪農らの正規戦力化を実現したり、家臣団の育成に向けて京都に
家臣を派遣し、学んで帰ってきた者たちに家中教育の師範を務めさせたりと、軍事整備や人材育成に随分心を砕いた人物であるが、人材登用においても独特の手
法を駆使していた。
具体的には、本来処断されるべき立場にある人間を拾い上げ、自らの腹心とするところにある。
・見捨てられた人質を家臣とする
大西頼包(実兄・大西覚養に見捨てられる)
三好俊長(実父・三好康俊に見捨てられる)
・処刑すべき仇敵を家臣とする
本山親茂(元親の甥(姉ちゃんの子)。本山家当主として敵対、交戦)
本山家は曽祖父の仇であり、一時は父・国親の婚姻政策で手を結んでいたものの、その父の代から抗争を繰り返してきた仇敵である。
それをようやく一城まで追い込んで降伏せしめたのだが、ここで腹を切らせるもよし、仏心を出したとしても毛利家が尼子義久を幽閉したように、蟄居を命じるのが筋なのだが、元親はこれを「我が一門である」として迎え、一軍まで授けて一手の大将としてしまう。
大西頼包、三好俊長に到っては、別に血縁ですらなく、阿波戦線で一時休戦などの場面で取ったただの人質である。
送り出した方も最初っから捨て駒のつもりであり、人質の安否など一切気遣わずにさっさと準備が出来次第戦争を再開している。
当然、ここで磔にされてしかるべきなのだが、元親は敢えてこうした境遇の者を助命し、配下として用いる。
こうして元親に一命を救われた面々は、本来なら死ぬところを助けられた上に知行まで与えられ、直臣に取り立てられた事に感激して、元親個人に絶対の忠誠を誓うようになる訳だ。
本山親茂は元々武勇を謳われた猛将であり、以後土佐平定から四国統一まで活躍し、戸次川の戦いでは元親の嫡子信親の家老として、共に討死している。
大西頼包は自分を切り捨てた兄・大西覚養の白地城攻略はじめ、四国統一で外交に合戦にと幅広く活躍。豊臣秀長を大将とする四国征伐軍と戦って討死した。
三好俊長もまた祖父康長が秀吉の陣中にいるにもかかわらず、最後まで長宗我部家を離れる事無く、改易後に山内一豊に仕えて生涯を終えている。"